かなり長くなりますが私の自己紹介を書きます。最後まで読んでくださると嬉しいです。
何故私が海外に出ることになったのか?
私は今は海外生活29年目でシドニーに住んでいますが、こうして海外に住むことになったきっかけをまずは書きます。
私は転勤族の父の仕事の関係で生後3か月の時から2-3年ごとに引っ越しを繰り返し、栃木、帯広、静岡、旭川、札幌、東京といくつかの違う土地で暮らしながら育ちました。子供の頃は転校が嫌だったので「私は絶対に転勤の無い自営業の人と結婚しよう」と思っていましたが、大きくなってからは「色んな所に住むことができて良かった!」と思いますし、特に自然に恵まれた北海道で小学校時代を過ごすことができたのはとても幸せなことだと思っています。私がオーストラリアを好きなのは自然の豊かさなどで北海道と似ているところがあるからかもしれません。
小学校6年生の後半に札幌から東京に引っ越し、大学2年のときに父が名古屋に転勤となったので、それから両親と離れて暮らすようになり、日本を離れるまで兄と二人で吉祥寺のマンションに住んでいました。
私が海外に出ることのきっかけとなったのは「1つのバイクの事故」。
その頃私は大学4年生で、バイクでツーリングに行ってみたくて喫茶店や料亭で日々アルバイトをしながら中型バイクを買うお金を貯めていました。そのマンションは交差点に建っていて、ある日交通事故があり、大きな音にびっくりして窓をあけたらバイクに乗っていた人が窓の下のところまで跳ね飛ばされてきていました。救急車を呼ぶために電話したのはあの時が初めて。それから色々と考え「バイクはやめよう」と決めました。
夏休前のある日学生向け海外旅行のパンフレットが郵便受けに入っていて「こんな旅行に行く人っているんだなー」と他人事のようにパラパラ最初は見ていた後に、急にふと思ったのです。「卒業して会社に勤めたらこんな4週間も海外に行くなんて出来ない。行くなら今だ!」って。
パンフレットを見始めて1時間後には「よし、行こう!あ、でもバイク買うための貯金が20万しかないからあと25万必要。お母さんに貸してもらうしかない!」と思い、その週にその当時名古屋に住んでいた母のところへ飛んでいきました。母はうるさいことは何も言わずにお金をぽんと出してくれました。今から思えばあれは母のへそくりだったのだと思います。あの25万が無ければ私は行くことができなかったので、母には本当に感謝しています。
それと同じようなことをいつか自分の子供達にもできたらいいなと思っていたら、長女が高校卒業後にニセコのスキー場にアルバイトに行くことになり、私が訪問介護の仕事をして貯めていた分から20万を渡すことができて、母にこれであの時の恩返しが少しはできたような気がしました。
あの大学4年の夏休みに行った4週間のロスでのホームステイが私にとっての初めての海外旅行。あの旅行に行かなかったら、私が今こうして海外に住むことにはならなかったと思います。ラスベガスやグランドキャニオンに行ったりして、楽しいことだらけの4週間を過ごしました。
この旅行でもしもホストファミリーに恵まれず、楽しいことが少なかったら「外国へ対する印象」はかなり違ったものになっていたと思います。ホストファミリーに「どうしてボランティアでホストファミリーになろうと思ったんですか?」と質問したら「こうして違う国の人をホストすることは子供達のため(二人の男の子)にとてもいい経験になるから」と答えてくれたことを覚えています。連絡先をなくしてしまったのがとても残念で、今でも皆さん元気で幸せに暮らしていてほしいです。
何故オーストラリアに行くことになったのか?
大学卒業後は5年ほど企業保険の営業の仕事をしていました。秋のある日の会社帰り、OL向け無料情報新聞を手にして地下鉄に乗り、短期語学留学の記事を読み始めました。地下鉄を降りる35分後には既に行くことを決意して、翌日には「12月で退職します」と上司に伝えました。私は直感で「これだ!」と感じると行動はいつも早いようです。
その頃は男女雇用機会均等法が出来た頃でしたが、それでも男女での待遇の差が非常に大きい会社の体質がどうしても自分に合いませんでした。上司や先輩、同僚には恵まれていましたが、日々の仕事が楽しく思えない日々だったので、心の中で「何か変化のきっかけを知らず知らずのうちに探していた」のだと思います。
英語を勉強しようと思ったのには理由があります。ふと読んだ雑誌で「イメージコンサルタント」という仕事があることを知り、ものすごく興味を持ちました。「この仕事をやってみたい!」って思ったんです。その頃日本でその資格を取る所を見つけることが出来ず、見つけられたのがアメリカの学校でした。でもその学校に行きたくても英語ができない⇒じゃあまずは英語力を身に付けなければ⇒どこかの学校に行こう⇒どこがいい?と調べ始めました。30年以上前のことなので良く覚えていませんが、確かアメリカのコミュニティカレッジに2年間行きたかったけれど、それは資金的にとても難しくて、このメルボルン行きになった気がします。
そうして27歳のときに3か月間メルボルンに語学学校に行き、すぐ日本に帰るつもりがドイツ人のクラスメイトの影響を受けて、バックパッカーとなり生まれて初めての一人旅。2か月半かけてバスでオーストラリア1周旅行をしました(旅行資金をまた母に借金)。
旅の思い出はたくさんあるのですが、その中の1つにケアンズのパブで初めて話したフランス人に「君みたいな人は日本を離れて他の国で働く方がいいと思うよ」と言われたことがあります。そしてその言葉がずーっと頭の片隅に残り続け、後からの自分の行動に結びつくことになるとは、その時には全く思いもしませんでした。ある人との出会いがその後の人生を大きく変えることってありますよね。
メルボルンの語学学校に通ってた間はオーストラリア人のシングルマザーの方のところにホームステイをしていたのですが、その彼女が私の学校が終わるのと同時に、安定した教師の仕事を辞めてトルコに行きました。その頃彼女は多分40代後半だったと思いますが、トルコから帰ってきたときの仕事のことなどは心配せずに「前から行ってみたかったから行って来る」「後のことは後から考えればいい」という考え方。
「年齢を気にせずやりたいことをやる」という彼女の行動にすごく刺激を受けたのを覚えています。彼女から学んだことは他にもいろいろありとても感謝しています。今でも覚えている最初にびっくりしたことは、食後に洗ったお皿を泡だらけのまま水切りかごに入れたことです。後になってこれはかなり一般的なことを知りましたが、その時はカルチャーショックで本当に驚きました(笑)。
その短期留学の行き先はオーストラリアかイギリスの2か所から選ぶことになっていて、私がオーストラリアを選んだのはただ単に行く時期が2月でオーストラリアが夏だったからです。私は寒いところが嫌いなのでもしも行く時期が7-8月だったら間違いなくイギリスを選んでいました。あのときもしイギリスに行っていたら、出会った人と経験が全部変わり、私の人生は今とは全く違うものになっていました。人生は日々選択の連続で、その選択の結果が自分の毎日を形づくっていると思います。
日本に帰国後は昼間は大手企業で派遣社員として働き、夜は焼肉屋でバイトというダブルワーク。バイトの後に終電までバイト仲間と居酒屋で飲んでから帰る、みたいな日々の合間を縫ってカルチャースクールで色んな講座を取りながら転職活動をしていました。私はいろんなことに興味を持つタイプなので、レタリングを習ってみたり、簿記を習ってみたり、英会話に通ってみたり、とあれこれしていました。今から思うとよくあんな生活ができていたなーと思います(笑)
そしてその頃には日本で「カラーコーディネイター」を教えるところがいくつかあったので、その資格を取りましたが、実際やってみたら「なんか違う、私には向いてない」と分かったのでその道に進むことはやめました。多分資格取得や必要備品の購入などで約100万以上かかったと思います。でもそれでも「実際やってみなければ」分からなかったことなので、そのことには全く後悔していません。
そしていつも頭の隅にあった「私は日本より海外で働く方が向いているんだ」と思いながら、Japan Timesの求人広告をたびたび見ていました。
そうして見ているとJapan Timesでは英文経理の求人が多いのに気が付いたので、次は英文経理の学校に夜に通おうかな?と思っていたら「シドニー支店」がある日本料理店の会社の求人を見つけ転職することになり、その時の私は29歳。その仕事は「海外店の店長候補」の仕事だったので、着物を着ることから教わり、懐石料理のことなどの研修を1年間受けました。お昼休みには襦袢姿で「高校入試用の中学英語のまとめ集」で勉強をしていたのを覚えています。
そして30歳のときに海外支店へ転勤となり日本を離れました。最初はシンガポール発着のアジアのクルーズ船で船に住みながら2年間働きました。自分のお店のスタッフは全員フィリピン人。マラッカ海峡を行ったりきたり。4ヶ月間は無休で毎日仕事、2週間の休暇、また4か月無休で仕事して2週間の休暇という形で働いてました。2週間の休暇の間にヨーロッパやUSのお友達のところへ遊びに行き、あんなに一度の旅行にお金を使ったのはあの時が初めてです。それまでまとまったお金を持ったことがなかったので、金銭感覚がおかしくなっていたのだと思います(笑)
いったい何か国の国籍の人達がいたのか覚えていませんが、クルーズ船で働くという経験は素晴らしいものでした。数年前に私の父を連れ香港からのクルーズに行った時、その当時私のスタッフとして働いていた女性と25年ぶりに再会したときには本当に驚き、相変わらず元気でいた彼女に会えてとっても嬉しかったです。クルーズは私の父が「死ぬまでに一度やってみたい事の1つ」だったので、あの時に連れていくことができて本当に良かったと思っています。
クルーズでの仕事の後はインドネシアのスラバヤの5スターホテルの仕事に就くはずだったのですが、内乱か何か理由があり変更となって、上海の5スターホテルに2年間勤務となりました。同じ「S」で始まる都市だけど、シドニーと上海で全然違うなー(笑)と思ったことを覚えています。
上海のホテルの中にある日本料理店での店長の仕事でした。初めて行った中国での仕事は中国語が全くできなかったこともあり本当に大変でした。私はかなり頑張り屋の方だとは思いますが、赴任して3か月目にはもうとても無理だと思い、辞めさせてほしいと上司に言いましが、かなり説得されて残ることになりました。初めてのホテル暮らしは通勤時間は無いも同然で掃除もしてもらえ、ルームサービスも頼めたりと、暮らす上では非常に楽でしたが、プライバシーはあまり無いような生活でした。日曜に1日だけお休みがあり、タクシーで伊勢丹まで日本風厚切りトーストを食べに行ったりするのが私のストレス解消法だったのを覚えています。途中で少し病気になった時は数週間日本に帰って入院して、また上海に戻り結局トータルで2年働きました。
そうやって2年経つ頃に、そのホテルのマネジメントが変わり違うホテルになることとなり、次に変わるホテルから、お給料を上げるから残って欲しいと言われたのですが、その日本料理店の会社へ就職した理由であった念願のオーストラリアのシドニーへの転勤が決まったいたので断りました。この時の私は35歳。
転職してから5年かかって念願のシドニーのお店に転勤。そこではスタッフがほぼ全員が日本人で、お客様も殆どが日本人だったので、英語を話す機会がどんどんなくなり、英語力が日に日に落ちていってしまいました。英語圏の国に来て住んでいるのに、英語力がどんどん落ちていくというのは、おかしな話ですよね。
そうして働きながら36歳のときに結婚式まで決まっていた人と別れることになり「もうこれからはきっと一人で生きていくのかな?」と思っていたのに、縁があってオーストラリア人の夫と知り合い、1年半後に結婚をしました。人との出会いというのは本当にいつどこで起きるか分からないものだと思います。
38歳と42歳で高齢出産をして、そしてレストランの仕事を辞めてからは、15年くらいずっと専業主婦をしていました。子供達が小学生のときに5年ほどPTA活動をかなり忙しくしていたのは、働きたくても外で働けなかったので、何か「仕事の代わり」が欲しかったのかもしれません。家事も子育てもとにかくすごく苦手なのに、なんとかこれまでやってこれたのは、ひとえに優しくとても寛大な夫のおかげなので、本当に感謝しています。
私の汚部屋時代はストレスだらけの毎日
私が片付けに目覚めたのは、長女が10歳、次女が5歳の頃だったと思います(記憶がもう定かではないのが困ります)。その頃は3階建てのタウンハウスに住んでいたのですが家の中はモノで埋まっていました。家具はそんなに多くは無かったので殆どが子供達のおもちゃ類と無くても困らないけど捨てられないモノだらけでした。写真を撮っておかなかったため記憶がもう定かではありませんが、3階までの階段の全部の段の両側にモノが置かれ、真ん中だけが通り道であいていた、という状態は今でも覚えています。2階が寝室で3階のロフトに洗濯物を干していたので、そこに行くための道筋をかろうじて確保していたという感じでした。
モノがあふれかえり、いつも片付いていない家の中のせいで、私は常にイライラしていました。
「あー片付けなきゃ」「あーもっと掃除しなきゃー」「でも公園連れて行ってあげなきゃ」「ご飯作る方が先だし」「片付けるよりもっと絵本読んであげたいし」「疲れちゃったから明日にしよう」といつもいつもこんな感じになっていて、それはそれは何年も積もり積もって、ものすごーいストレスでした。
片付けられなくて、自己嫌悪もよく感じていました。産後うつ病にもなりました。「私は全くちゃんとした奥さんをやれていない」「全然いいお母さんじゃない」「どうしようもなく主婦失格だ」とか、感じる日々。
仕事をしていた時には色んなことを自分でコントロールできていたのに、それができなくなっている状態がすごく嫌でした。幸いにも私の夫はいつでも優しく「子供のことだけで大変なんだから、そんなこと気にしなくていいから」と全く文句を言う人ではなかったのが大きな救いでした。
片付けをすることになったきっかけは
そんなある日、お片付けのことでは超有名人であるこんまりさんの「人生がときめきく片付けの魔法」を知った経緯は、無料の日本語新聞の書籍紹介でした。その記事をみて「これだ!この本を読んで片付けをしなかったら私はもう終わりだ!」(←終わるわけないんですがー笑)と何故かピーン!ときたんです。なのですぐ日本にいる家族に電話して「できるだけ早くこの本を送って!」と頼みました。
届いた本を一気に読み、私のいわゆる「片付け祭り」が始まりました。多分1ヵ月半くらいかかり家の中のモノは半分以下になったと思います。その当時住んでいたのは14軒が一緒のタウンハウスだったのでごみ箱は共同で使います。私が捨てたいゴミを一度に捨てると全部のごみ箱があっという間に埋ってしまうので、屋根裏にレジ袋に入れたごみ袋をためておいてちょこちょこ捨てるのを続け、晴れて階段の全ての段からモノがなくなったときのうれしさは今でも覚えています。
片付けをして良かったこととは
そしてその後、私以外の家族3人の願いであった「庭付き一戸建て」の家に引っ越すことになりました。私は家が大きくなると掃除をするところも増えるし庭の手入れとかもあり、自分の家事が増えるので引っ越したくはありませんでした。夫と子供達の引っ越し希望で何十件も見て歩いていたら、これもご縁で家族4人が大好きな家が見つかったのです。
この今の家は前の家の数倍の広さ。引っ越してから数年の間に家具とかなんやかんやを買い足してしまい、知らない間にまたモノがどんどん増えていってしまいました。私の夫は「タメコミアン」でモノが捨てられない人なので、その点では今もなかなか大変です(でも以前よりはだいぶマシです)。
そして数年後またモノに溢れた家に日々イライラしてき始め「これはいかん!ガマンの限界!」と思い、また「片付け祭り」をやりました。なので一度片付けたはずなのにまた気が付いたらモノが増えていた、、、リバウンドしてしまった、、、という人の気持ちはよく分かります。
そしてやっとまたモノが減り、家の中がスッキリ片付いたら「頭の中」もスッキリ片付いて、「何か新しいこと」をやってみようかな?」っていう気になったのです。
それで始めてみたのが何年も前から気になっていた物販のネットビジネスを始めることと、介護士の資格を取ることでした。
私はパソコンがものすごーく苦手なのでネットビジネスに興味はあったけど私には無理!って思いこんでいたのですが、家の中がいつもスッキリしていると考え方が前向きになり「やってみようかな?」と思えオンライン説明会に参加して、やり始めてみました。
始めて3か月目くらいには月利が10万を超えて10ヵ月後には外注スタッフさんを採用することになりました。ネットビジネスの良いところはパソコンとインターネットがあればどこにいても仕事ができるので、日本に一時帰国したり旅行に行っても仕事を中断することなく続けられるところです。
物販のコミュニティにも入ったので、世界のあちらこちらに仲間ができ、それまで知らなかった世界は私の日々の世界を広げてくれました。今は日本に一時帰国しても,ヨーロッパに行っても、USに行っても会う仲間が何人もいます。皆さん私よりかなり若いですが、私の歳を気にせず付き合ってくださり、私が知らないことをいろいろと教えてくれて、刺激をたくさん受けることができてとても楽しいです。
家の中に余計なものがなくて、空いた空間があるということは、心の余裕にもつながると実感しています。
なぜ介護士の資格を取ったのか?
54歳のときに介護士の資格を取った理由はその仕事をしようと思ったからではありません。私の母が68歳でガンで亡くなる前に0歳と4歳の子供達を連れ半年日本に帰り看病をしたのですが、介護の知識が何もなかったので「ちゃんと母を看てあげられなかった」という後悔がずっとありました。
ゆくゆくは父のことを看ることになるだろうし、夫の両親も老いていくし、当然夫と自分も老いていくので「介護の知識は無いよりあるほうがいい」と思ってTAFEという職業訓練校に半年通いました。当然授業は全部英語なので理解するのが難しく「解剖学」の授業などはもう覚えなきゃいけない単語が長かったりして半泣きでやっていました。無事に課題を終え卒業することができたのは、ひとえにクラスメートのおかげです。
介護の仕事をする気はなかったのですが、3週間行った研修先の老人ホームで気にいってもらえ、研修が終わるときにそこでの仕事が決まったのですが、子供がラグビーの試合で腕を骨折してしまい6週間学校へ送迎しないといけなくなったのでその仕事を始めることができませんでした。
それは結果的には良かったので、そこで働くことは「私の人生では必要なかったのだ」と思います。そして学校でいつも隣に座っていたクラスメートが、ある日自分がしている仕事のシフトが合わないので、私にやらないか?と声をかけてくれたのがきっかけで訪問介護の仕事を始めることになりました。彼女がいつも私の隣に座っていて仲良くなっていなかったら、起きなかったことかと思います。
最初の半年くらいは身体障害のある方々のサポートの仕事をしていました。皆さん、不慮の事故で車椅子を使うようになられた方達。それまでに直接そういう方々と接したことがなかったので色々と学ぶことが多かったです。クライアントの皆さんはいい方達だったので続けたかったのですが、シフトが殆ど早朝で睡眠不足がひどくなり、続けることができませんでした。
なぜ片付けのことを勉強しようと思ったのか?
自分にとって、この片付けをしたことは本当に「人生が変わった」と思えるほどの大きな出来事でした。なので、このことを他の人にも知ってもらいたい、片付けの仕事をしてみたいと思って、53歳のときに整理収納アドバイザーの資格取得を始めることにしました。整理収納アドバイザー2級までの資格は通信で取り、1級の試験は日本にまで受けに行きました。これまた何の文句も言わず「是非行ってきたら」と送り出してくれた旦那さんにとても感謝しています。
子供が片付けをできることの重要性も二人の子育てをしながら感じていたので「親子の片付けインストラクター」や「整理収納教育士」という資格も取りました。そして片付けをするときにはまず物を出すので、その出したところを掃除することから「お掃除」のことにも興味が出てきて「クリンネスト」という掃除の資格も取りました。
片付けに悩むものの1つに「写真」があります。なので「写真整理アドバイザー」の勉強もしました。今はスマホとかで撮る人が殆どですが、その前はデジタルカメラで撮ってた人が多く、その前にはフィルムを入れたカメラでしたよね。紙焼きの写真が貼られたアルバムがたくさんある人も多いのではないでしょうか。私もまだ実家に置いてあります。なかなか帰国できないので写真の整理が全部まだ終わっていません。
そしてその先にこうして行きついたのが「生前整理・終活」だったのです。
終活関連もいろんな資格があり「生前整理アドバイザー」「終活ガイド」や「終活ライフケアプランナー」「エンデイングノート認定講師」などの勉強をしました。
なぜ終活の仕事を始めようと思ったのか?
終活のことで仕事をしたいと思うきっかけになったのは、あるセミナーに参加したときのワークで「あなたがこれからやっていきたいことは何ですか?」と考える質問です。
「片付けの良さを一人でも多くの人に知ってほしい」「生前整理をすることの大切さを知ってほしい」「エンディングノートを書くことの良さを知ってほしい」「誰かのサポートをしたい」「自分のオリジナルのエンデイングノートを出版したい」
と思ったのです。その頃は情報発信という単語さえ知らなかったのですが、57歳からインスタを始めたり、58歳からTwitter(ツイッター)を始めてみたりしながら少しずつ学んでいき、こうしてブログを書くことになったという訳です。
とても長くなりましたが、最後まで読んで頂き、どうもありがとうございました!